ルンバ•ラプソディ/黛敏郎
※「黛」の部首・黒の部分は「黑」が正しく、フォントの関係上「黛」を使用しています。
「ルンバ・ラプソディ」は、 1948年、東京音楽学校在学中の黛敏郎が弱冠19歳の時に完成させた作品。
黛敏郎というと、1964年から30年以上続いた「題名のない音楽会」での司会ぶりを記憶に刻む人が多そうだ。本業の作曲家としては、「涅槃交響曲」や「曼荼羅交響曲」、三島由紀夫のオペラ「金閣寺」、モーリス・ベジャールのバレエ「ザ・カブキ」など日本文化のありようを純音楽に表した作曲の数々、
また、映画「東京オリンピック」の音楽、70年大阪万博の音楽演出、ハリウッド映画「天地創造」の音楽など、戦後の高度経済成長期における輝かしい活躍は枚挙にいとまがない。「ルンバ・ラプソディ」はそれらの萌芽を示す、十代の黛の珠玉の作品といえる。
【生い立ちから作曲活動の端緒】
黛敏郎は1929年2月20日に、山下汽船の船長の息子として、最新の外国文化が直接に入ってくるモダンな街、横浜に生まれた。家にはオルガンがあり、母は箏をたしなんだ。小学校入学の頃にピアノを習い始め、高学年の頃にモーツァルト風、中学生の頃にはドビュッシー風の作曲をするようになっていた。太平洋戦争終戦の年の1945年4月に東京音楽学校に入学し、作曲科教授の橋本國彦は、同期入学の矢代秋雄と並んで「東京音楽学校始まって以来の天才」と讃えた。橋本は、ウィーンに留学し現代音楽の知識を得、その後アメリカに渡ってシェーンベルクに直接学んだ、日本におけるモダニズムの最高峰の作曲家だった。戦争末期で学校の授業はほとんど行われなかったが、戦災で実家を焼失してしまった黛は、鎌倉にあった橋本の家に寄宿してレッスンを受けた。寄宿中には橋本の作品のみならず多くの蔵書、音源に囲まれたが、とりわけSPレコードで聴いたストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」に強い影響を受けたという。橋本に教えを受けた作曲家には、團伊玖磨と芥川也寸志の2人の先輩がおり、のちに「3人の会」を結成することになる。
【現代音楽とジャズの融合】
黛は1946年、17歳の時には橋本の指導でヴァイオリン・ソナタを完成させるなど、実力をつけたが、橋本は戦中の活動の責任をとり、教授を辞任してしまう。代わって、池内友次郎と伊福部昭の2人が着任、この2人からも薫陶を受けた。池内は日本人で初めてパリの国立高等音楽院で作曲を学び、ラヴェルを理想の作曲家とし、その指導法が日本の主流になってゆく人。伊福部は独学で作曲を学んだにも関わらず、国際的に認められた異色の経歴で、独自の「日本的、民族的」な作品が評価されている。伊福部はダンディな風情で「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」というアンドレ・ジイドの言葉を引用し、ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどの作品について情熱的に論じ、芥川也寸志や黛敏郎たちは大いに影響を受けた。
一方その頃には、戦中に禁止されていたジャズなどの音楽が入ってきて、黛はアルバイトとしてジャズクラブでピアノを弾くようになった。無限の可能性を秘める多感な時期に、現代音楽と、アメリカのモダンな大衆音楽の両方を吸収していく。そうして1947年、 18歳の時に、ジャズの溌剌たるリズムの躍動感が斬新なピアノ曲、「オール・デウーヴル」を作曲した。初演を聴いた矢代秋雄が「これはとんでもない曲である」と衝撃を書き残したセンセーショナルな作品で、ドラムセットを伴い、第1楽章はブギウギ、第2楽章はキューバのダンスであるルンバのリズムの作品だが、ストラヴィンスキーやラヴェルなどの音楽の要素も備えている。
【ルンバ・ラプソディ成立】
このピアノ作品の第2楽章のルンバを管弦楽化し、名前を「ルンバ・ラプソディ」として、 1948年4月9日に完成させた。楽譜は指導した伊福部昭に預けられた。その後「シンフォニック・ムード」の材料として使用したのもあってか、演奏されないままお蔵入りになっていたが、今日タクトを振る湯浅卓雄マエストロによって、2004年に初演された。
印象主義風の緩やかな序奏から次第にルンバのリズムが現れ、橋本の家で聞いて以来影響を受けたストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」のように、荒々しいエネルギーに満ちたダイナミックな音楽が展開される。大音量のオスティナート(繰り返し)のなかに、ダンサブルなリズムと、ラテン的なメロディが現れてゆく熱狂的なラプソディだ。溢れるばかりの若い才能を、演奏の中に感じ取っていただくことができるだろうか。
(さたに)