オーケストラのためのラプソディ/芥川也寸志

 1985年秋、その日の芦響はピリピリとした緊張感が満ちていた。練習開始定刻には、ずらりと団員がそろい、管楽器のメンバーチェックから始まった。いつもの緩い開始時刻ではなく、団員の突っ込みと歓談も聞こえず、その静けさは、普段との違いを際立たせた。
 そう、今日は1982年「森の歌」以来の芥川也寸志先生のいらっしゃる日。アマチュアオケの救世主は、少し眉間にしわを寄せて登場した。第25回演奏会本番はスケジュールが合わず、団長の要請を受け、団員の士気を高めるために練習日に来られたのだ。社会人として間もない私には、厳格な校長先生のように感じられた。「音楽の広場」で黒柳徹子さんと談笑するダンディでにこやかな物腰と打って変わって、厳しく憂う顔が心に刻まれた。

 芥川也寸志は、芥川龍之介の三男として生まれた。2歳で父を亡くし、父親の遺品のSPレコードを聴いて育った。特にストラヴィンスキーの「火の鳥」「ペトルーシュカ」を好んだ。中学時代に音楽を志し、東京音楽学校
(現:東京藝術大学音楽学部)に入学した。芥川作品は、3期に分けられる。
 第1期は、東京音楽学校で師と仰いだ伊福部昭やストラヴィンスキーに繋がる律動的で速度感のある強靭なオスティナート(反復)音楽と都会的で抒情的な音楽の融合を図った時期。「交響三章」(1948)「交響管弦楽のための音楽」(1950)「交響曲第1番」(1950)が生み出されている。
 第2期は、音楽の潮流の変化を受け、自らの音楽を変えようと模索した。「エローラ交響曲」(1958)を初演している。アマチュアの新交響楽団の創立、発展にも尽くした。
 第3期は、第2期で得た前衛的な書法をいかしつつ、第1期の音楽へ作風を軌道修正した時期。「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」(1969)「オーケストラのためのラプソディ」(1971)があげられる。芦響は、創立10周年(1977)に芥川先生を音楽監督に迎え、定期演奏会で8回指揮を仰いでいる。

 ホルンの咆哮から「オーケストラのためのラプソディ」は、始まる。長7度の高跳びは魔術の世界へと引き込む。激しい序奏から馬子唄のようにと記された心安らぐメロディがヴィオラから唄われる。唄は、ピッコロに受け継がれ、楽器の数が増え増幅していく。しかし、その唄は、突然「♭シ、ラ、♭ラ、シ、ソ、ファ」という呪文のような金管の音でかき消されてしまい次第に遠ざかっていく。
 弱音器をつけた弦楽器の半音階下降の中、舞うように奏でられるピッコロの音。その美しいメロディは短く、序奏部分にも登場した耳慣れた音の繰り返しが次第に速度を増し、アレグロ・オスティナートへと突入する。ラテンパーカッションのカバサ、ギロは4本ずつ演奏される。オスティナートの主題は幾度も繰り返され、不協和音とともにいったん静かに収まる。馬子唄がオーボエで奏でられ、前半部分を思い起こさせるが、再び金管楽器にかき消され静けさを取り戻す。
 フルートソロに続いて木管群がテンポをずらしながら子守唄のような旋律を奏でる。後半アレグロ・オスティナートの部分が再現する。別々に登場していた旋律部分とリズム的部分が同時に組み合わされ、「魔法使いが小さな杖を振り回す音楽」は、激しい速度と大きな音と共に終わる。

 1987年芦響創立20周年記念演奏会練習。これが、芥川先生との2度目の出会いだった。練習場は緊張感に満ち溢れていたが、芥川先生は、活舌よくお話し好きで、N響アワーからそのまま抜け出てきたようだった。ボロディンの「ダッタン人の踊り」は土臭く、騎馬の音は激しかった。チャイコフスキー交響曲5番のホルンのメロディは、こぶしの効いた演奏だったが、共にその歌を口ずさみ情熱的に指揮された。出会いと共有する時間を大切にされ、練習でも決して手を抜かない全力投球を要求された。芥川先生ご本人も「僕は、指揮者ではなく作曲者です」とおっしゃっていたが、作曲者の思いを伝えようと必死に踊るように繰り出す指揮が印象的だった。
 今日、2025年6月15日、芦響第100回演奏会。魔法の杖に誘われ演奏しよう。「音楽はみんなのもの」として。

(いわも)

参考文献
芥川也寸志 その芸術と行動 東京新聞出版局 1990
NAXOS日本作曲家選輯CD 芥川也寸志 ライナーノート